おはるのブログ

自分と向き合うためのブログです。

過去と未来に向き合うこと? ~ヨガの八支則「アヒムサ」~

 

暴力か、暴力でないか、

その見極めが難しいと前回のブログで書いていた。

 

 

それから、ひとつ自分の中でひとつ軸が見えた。

だから、アヒムサの見極めかたについて自分なりに考えたことを書いてみようと思う。

 

アヒムサか、そうでないかは

「明るい未来が見えるかどうか」

ではないかな、というのが私の今の見解。

 

この食べ物を食べて、未来の自分は喜ぶことになるかな。

この練習をして、未来の自分は喜ぶかな。

 

この言葉をかけて、未来の自分は今の自分に感謝できるかな。

 

 

 

「今」の積み重ねで「未来」が作られる。

「未来」のために「今」がある。

 

この時間軸を意識して考えると、

自分の取るべき判断、行動が見えてくるのかなって。

 

これをわかりやすく表現しているのが、

「我慢」と「忍耐」という言葉かな、と思った。

 

調べてみると、なかなか興味深かった。

 

渡辺奈都子さんの「人間関係をしなやかにする たったひとつのルール」

という本に書かれている我慢と忍耐の表現が自分の中で一番しっくりきたかな。

 

そこでは、

 

我慢は、「我、怠る」という意味になり、自分の願いを怠る行動であり、

忍耐は、「耐えをみとめる」という意味で、自分の目標へと近づけるものである、

 

と言っていた。

 

なるほどな。

身体の痛み、心の痛みを感じたとき、

この痛みはなぜ感じているのか、

この痛みを乗り越えてなにか得られるものはあるのか、

ということを自問自答することが大切なのかなと思った。

 

そうすることで、これは自分への暴力なのか、それとも愛のムチになるのか。

 

その見極めができるなって思った。

  

未来の自分を想像して、それがハッピーな自分だったら、

きっとそれは今、自分に課された乗り越えるべき壁なんだと思う。

 

もし、未来が想像できなかったら、過去の自分を思い出して、

今、自分がハッピーだと感じていること、アンハッピーだと感じていることを

見てみるといいのかも。

そのときの自分の判断と行動が今の感情にどう影響しているのか、

それを見てあげたら、自分の中で暴力であるもの、愛のムチであるもの、

の判断軸ができるのかな、って思った。

 

迷ったら、自分に問いかけてみよう。 

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おはる

 

 

 

 

 

 

暴力を振るわない=アヒムサ ~ヨガの八支則~

 

「暴力を振るわないこと」

 

誰でも「こんなの当たり前に知っている!」と言ってしまうような言葉だと思う。

そして、大半の人が「当たり前にできている」「自分にはあまり関係ない」

と思ってしまうのかなって思う。

 

実は、この「暴力を振るわないこと」は、

ヨガの八支則の第一ステップのしてはいけないこと:ヤマ(禁戒)

に書かれている。

それも、一番初めに。つまり、ヨガの大原則なのだ。

 

ヨガの八支則では、「暴力を振るわないこと」を「アヒムサ(Ahimsa)」という。

ちなみに、日本語では「非暴力」と表現される。

 

多くの人は「非暴力」と聞くと、ガンジーを想像するのかな。

誰かに対して暴力を振るわないこと、と捉えるかもしれない。

もちろん、その通りだ。

 

けれども、ヨガの「アヒムサ」は、もっと広い意味を持っている。

「何かを傷つけることをすべて避けること」

これが、アヒムサ。

 

だから、他人はもちろん、自分に対しても傷つけてはいけない。

 

身体を痛めつける肉体的な暴力だけでなく、

表現によって傷つけるの言葉の暴力、

さらに、心を傷つける思考の暴力も含まれる。

 

他人を傷つけるようなことはしたくない。

多くの人はそう思って、生活しているんじゃないかな。

 

だけど、自分を傷つけないようにしよう。

って思ってる人はどれくらいいるんだろう。

 

例えば、

暴飲暴食をして身体を痛めつけないようにしよう。

身体を痛めつけるほど、過度な練習をしないようにしよう。

とか。

 

他人には言わないような厳しい言葉を

自分にも使わないで自分を責めないようにしよう。

自分はだめだ、と否定しないようにしよう。

とか。

 

 

でも、正直わからなくなる。

どこまでが、アヒムサなのか。

 

暴飲暴食の例は、わかりやすいけれど、

それ以外の「身体を痛めつける」とか「厳しい言葉をかける」とかは、

 

「自分への甘え」にもなりかねないから。

自分はアヒムサという言葉に自分逃げていないだろうか?

 

時々、わからなくなる。

「アヒムサ」で自分は弱くなっていないだろうか。

 

「傷ついた」と思わなければ、それはアヒムサなのか。

 

でも、こういう自分を追い込むような考え方自体が「アヒムサ」ではないのかな。

 

というわけで、自分はヨガの八支則の一番初めからつまずいている。

傷つけないって難しい。

 

でも、思ってしまった。

自分が挑戦したいと思っていることだったら、

思いっきりやってみてもいいんじゃないかな、って。

 

そうしたら、それは「暴力」ではなくなるんじゃないかなって。

 

多少の負荷をかけないと筋肉もつかないからね。

 

自分に必要な痛みだったら、

「暴力」ではなくて「愛の鞭」に変わるんだと思う。

 

自分なりにアヒムサを見極めていきたいな。

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おはる

 

 

 

 

おはる、ヨガと向き合う。

 

ヨガには、8つの教えがある。

それが、ヨガの八支則(はっしそく)と呼ばれるもの。

 

この8つのステップをひとつひとつ行い、

 

ヨガの経典「ヨガ・スートラ」に記される

心の作用を鎮めること(Yogas chitta vritti nirodhah.)」を目指していく。

つまり、心が穏やかな状態。

これが、ヨガ。 

 

ヨガっていうと、

ポーズをついついイメージしてしまうけれど、

実は、ヨガの一部でしかないんだよね。

 

ヨガのポーズ=アーサナ

ヨガの八支則の中では三番目に出てくる。

一番目ではない。

 

一番目と二番目はなにかというと、日常で行うことが書かれている。

 

日常生活の中でしてはいけないこと:ヤマ=禁戒

日常生活の中で取り入れたほうがよいもの:ニヤマ=歓戒

 

である。 

 

この「ヤマ」「ニヤマ」を日常で取り入れ、

心を落ち着けて、三番目の「アーサナ」を支える基盤を作っていく。

 

アーサナを行うための準備だから、ヤマとニヤマはとっても大切。

 

書かれていることは、

どれもどこかで聞いたことがあるような基本的なことばかり。

でも、なのか、だからこそ、なのか、わからないけれど

わたしにとっては、とっても難しい。

苦戦している。

 

私は今、ヨガのインストラクターの資格を取ろうと日々勉強し、練習している。

 

だからこそ、それを聞いた周りの人は私のことを

さぞかし心が穏やかで落ち着いていて感情の起伏なんてないんだろうなあ、、

って思うかもしれないけれど、実はそんなことはなくて。

 

穏やかなときもあるけれど、

嵐みたいに荒れるときもある。

心が前向きなときもあれば、全然前を向いてくれないときもある。

 

そんなときにヨガは自分に気づきを与えてくれる。

でも、気づきを与えてくれるだけで、答えではない。

 

気づいてしまうから、つらいこともあるし、逃げ出したくなることもある。

でも、気づくからこそ、乗り越えることもできる。

 

具体的な行動は自分で考えて、決めて、ジャッジする。

要は、自分次第。

 

ヨガは、難しい。そして、深い。

 

時に、自分を支え、時に、自分を試す。

 

「95%が本質、5%が形式」と教科書に書いてあった。

 自分自身で自分の「答え」を見つけていくんだ。

 

ヨガと自分と向き合って、成長したい。

 

これからは、ヨガの八支則おはるの実践ブログも書いていこうかなって思ってる。

 

出来ていることも、出来ていないことも。

自分と向き合うためのブログだからね。

 

おはる

 

 

 

 

ネガティブになる理由。

 

体調を崩すとそれが心まで影響して、

普段、できることができなくなって、

やりたくなくなって、

どんどんどんどんネガティブになる。

 

身体が強くなると、心も強くなるっていうけど、

それって反対も言えて

身体が弱くなると、心も弱くなるなって。

 

でも、心の弱さって自分の弱さから来ているから、

本当ならコントロールできるわけよね。

 

それなのにできないのは、心のどこかで、

「あー、わたしって弱いな」って思いながら、

そこに居心地のよさを感じてしまうからなのかなって思った。

 

身体が弱っているんだから、

心も弱っていいよねって甘える自分がでてくる。

 

体調も回復して、冷静に自分を分析するとこんな感じ。

 

でも、なんで普段見えない心の弱さが出てくるんだろう。

弱い自分に居心地のよさを感じてしまうんだろう。

 

もちろん、強くなりたいっていう自分もいる。

でも、このまま弱い自分でいたいっていう自分もいる。

 

普段なら、前者が勝つんだよね。

でも、体調を崩すと後者が強くなっちゃう。

だから、ネガティブな感情がエスカレートしていく。

 

どちらも自分自身に変わりないんだけど、

 

前者は理性と知性がある自分、

後者は欲とか感情だけの自分なんだよね。

 

後者は、コントロールがきかないから

心がぐらついて安定しない。

 

だって、刺激のある方向へ心はどんどん反応するから。

楽なほうへ楽なほうへ思考が持っていかれるから。

そして、支えるものがないから。

 

自分自身の虚像を追い求めて、虚しさを感じてしまう。

 

こう考えていたら、

なんで体調崩すとネガティブになるのかわかってきたかも。

 

体調を崩しているときって、

「ゆっくり休んでね」っていうよね。

 

このときって、普段働いてくれている

理性も知性も一緒に休んじゃうだと思う。

というか、働くエネルギーがないんだと思う。

 

だから、体調崩しているときって、

自分の「欲」や「感情」ばかりが浮き出てきて、

心を揺さぶって普段だったら見られない

自分の弱さとかネガティブがでてくるのかなって。

 

こう考えたら、体調崩しているときに

とことんネガティブになるのは、

自然のことなのかなって思えてきた。

 

たまには、欲を開放させてあげてもいいのかな、って。笑

 

無理にポジティブになったら、

身体も心も休まらないのかな、とかね。

 

おはる流考察はこんな感じ。

 

体調崩したら、無理にがんばらないこと。

 

結局、この言葉に収まる。

「ゆっくり休んでね」ってこういうことなのか。

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おはる

 

 

 

心を支えたい。

 

自分の行動や感情に目を向けてみると、

思っていた以上にいろんなことを思ったり考えていていた。

 

けれども、その内容が果たして

今、考えるべきことなのか

そうではないのか、もしくは、

手放したほうがよいことであるかは

はまた別の話で、

 

その取捨選択が難しいなあって思った。

 

「心は、刺激が強い方に反応する」

て、あるヨガの先生が言っていた。

 

心に身を委ねすぎると、

本来考えるべきこと、解決すべきことから

どんどん離れていってしまう。

 

そうすると、自分が描いている

理想の自分から離れてしまうなって。

 

たしかに、心は楽しい方向へと進むなって。

 

こんなのあったらいいのになあ、とか、

こんな風になりたいなあ、とか。

楽しくて明るい未来ばかりを見つめる。

 

その裏には、きっと見たくない現実があって。

 

だから、「今、なにをすべきか」

が抜けてしまう。

 

もちろん、夢は大事だ。

 

でも、夢を見つつも、

それを現実に落とし込む作業をしなくてはいけないって気づいた。

 

それは、心や感情に委ねていたらできないこと。

 

自分で意識的に、

「心」を誘導してあげないとね。

 

自分自身の人生を切り開くって

そういうことなんだろうなあって。

 

なかなかわたしの心は自由で好奇心旺盛で

これをコントロールするのがかなり難しい。

 

だからこそ、上手に付き合っていきたいなって思ってる。

 

心に振り回される自分ではなくて、

自分が心を支えてあげられるような存在になりたい。

 

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 おはる

 

「気づいたら」の世界。

 

最近、自分の行動に説明ができない自分がいることに気付いた。

もちろん、すべてではないが、指摘されて振り返ってみたときに

 

「、、、、、あれ。」

「??????」

 

しばらく、沈黙が続いて、最終的に頭のなかに「?」が浮かぶ

 

なぜだかわからない。

なにかしら考えていたはずなのに、なにを考えていたのか思い出せない。

 

考えていなかったんだな、わたし。

 

かなり、ショッキングな出来事だった。

 

「気づいたら」

という言葉でいろんな物事を説明できてしまうことに気付いて。

そのとき、急に怖くなった。

 

気づいたら、時間が過ぎていた。

気づいたら、食べ過ぎていた。

気づいたら、病気になっていた。

 

もちろんポジティブな意味で使われることもある。

 

気づいたら、成功していた。

気づいたら、夢が実現していた。

 

 

でも、そのときは、 

「気づいたら、もう遅かった。」

ってなりかねない。そんなの絶対いやだ。

 

と、心の中で叫んでいる自分がいた。

 

 

全て自分自身に起こっている出来事なのに、

「気づいたら」って

他人事みたいで、なんだか無責任に感じてしまった。

 

ほとんどすべてのことを説明できてしまうこの言葉を、

私は使いたくない、って思った。

この言葉で片づけたくない、と思った。

 

素直に怖くなっていた。

 

自分の意志を持って、自分の人生を歩みたい。

 

その気持ちを尊重したいからこそ、

 

過去の自分がまるでなにもなかったかのように

変えてしまう言葉は、私の中では封印しようと。

 

だから、私は自分の行動を観察しようと決めた。

 

私は日々なにを考え、行動しているのか。

どんな言葉を発しているのか。

 

観察をし始めてまだ日も浅いが、

 

ひとつ言えることは、

自分の観察って想像以上に難しいということ。

 

 

けれども、「気付いたら」の恐怖を味わいたくないから、

続けてみると決めた。

 

こつこつがんばるぞ。

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2017.9.27

おはる

 

 

 

「呼吸」は「伝える」こと。

 

最近、呼吸のすごさを実感している。

 

一回一回呼吸って変わっていって。

身体のいろんなところに動きが生まれる。

面白い。

 

呼吸が動きを作るんだ、ってことが

少しずつ感覚でわかるようになってきた。

 

そんなときに、そもそも呼吸ってなんなんだろうって。

そんな根本のところに興味をもって調べたら

「吸うを呼ぶ」行為を表していたことを知った。

 

吸うためには、吐かないといけない。

つまり、呼吸は「吐くこと」を導くことだといえる。

 

当たり前に見ていた漢字の意味を考えたこともなかった。

これまでは単純に、

吸って、吐いて、の繰り返しが「呼吸」のイメージだったから、

不思議な感覚に襲われた。

 

たしかに、人は亡くなるとき、息を引き取る、という表現をする。

つまり、息を吸って最期を迎える。吸いきって、もう吐かない。

 

これを知ったとき、生命を維持する「呼吸」ってすごいなって思ったし、

今までの呼吸がいかに「呼吸」できていなかったか痛感した。

 

そしてなにより、息を吐くことへ意識が向くようになった。

 

よく「深呼吸しましょう」って言われる。

深い呼吸を意識しようとしていたけれど、意識すればするほど、なんか苦しくなる自分がいた。

 

それもそのはず。

たくさん空気を取り込むぞー!って思って、意識的に吐くことをしていなかった。

だから、苦しかった。

深呼吸は深く呼吸をすること。

つまり、深く吸うためには、まず深く吐かなければならない。

 

「現代の人は吐くことを苦手としている」とヨガのインストラクターの方が言っていた。

 取り込んでばっかりで、出すことを忘れているそう。

 

なるほどなあ、と思った。

これって呼吸だけじゃなくて日常生活でもそうなのかな、って。

 

いろんな情報、知識を取り入れることに一生懸命で、もしくは、満足して、

それをアウトプットとして出すことを忘れがちなのかな、って。

 

このアウトプットとは、

ただインプットしたことをそのまま出すのではなくて、

一度身体に取り込んで、そこで体中を巡って、

その人の性格や個性が入った「考え」が出来上がった

アレンジされたものを指している。

そして、それを外に吐き出すこと。それが、アウトプットだと思っている。

 

この呼吸の話を知ったとき、

自分自身へのメッセージにも聞こえた。

 

吐き出すこと。

つまり、自分の意思や考えを伝えること。

 

呼吸は、吐くためにある。

つまり、自分を伝えること、って言い換えられるかな。

 

呼吸は、外の世界と中の世界とコミュニケーションをとっていると考えたら

吐き出すことの大切さがわかった。

伝えなきゃわからないからね。

 

 

知識や情報は、自分の考えを持つために取り入れる。

自分という人間を作るために取り入れる。

そして、最終的に伝えるために取り入れる。

のかなあ、って。

 

たしかに、持っているだけでは苦しくなるだけなんだなあって。

 

自分自身の思いや考えを伝えること。

これ、大事だな。

 

おはる

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セブンシスターズにて